ETERNAL-FLAME

~ 寝ても醒めても キャンドルのことばかり ~

重ねていくもの

 

札幌へ行きたくなったから、読んだのか、

読んだから、札幌へ行きたくなったのか。

・・・なにって、羊三部作の話です。

ひさびさに、村上春樹作品を読み返しているものですから。

 

 

活字中毒、だったんじゃないかと思うんです。

そもそも、本を読みながら下校するタイプの小学生ではありましたが、

大人になってからは、ストレス解消ならぬストレス中断のために、

楽しみというよりは、頭をカラにする苦行のような読書をしていました。

 

変わるきっかけは、なんだったんでしょうね。

ふと気付いたら、読書こそが苦行だと感じるようになったんです。

あんなに、手当り次第に読んでいるほうが楽だったのに、

読むことのほうが、苦しくなってきたのです。

 

たぶん、集中力のせいだと思うんです。

集中力がもたなくなったんです・・・年齢のおかげでしょうか(苦笑)

体力の続く限り、読書を続けることに対しても、

精神力の続く限り、悲しみ続けたりすることに対しても。

 

若さ、それだけでさえ特権だと感じられるのは、

残念ながら、もう若くない、ということの証明ですけれど、

どうでもいいようなことを延々と続ける力を失いはじめて、

ようやく、こだわることの愚かしさ、みたいなことが身に染みてきました。

 

 

で、その活字中毒が快方へ向かったように自覚できたので、

できた時間で何をしようかと考えたら、やっぱり読書だったのです(笑)

そして、純粋な楽しみのために、何を読みたいかと考えたら、

村上春樹氏の作品だった、というわけです。

 

そんなわけで、村上作品を最初から読み返しているわけです。

たいていの長編小説は、繰り返し読んでいますので、

10代のときの感じ方、20代のときの感じ方、

そのどれもを思い出しつつ、今の感じ方とは全然違うことに驚きます。

 

たとえば。

主人公が、ことある毎にビールを飲むのは、

ビールを飲むことでしかしのぐことができない悲しみ、があるとして、

その行為に対するわたしの感じ方も、まったく違ったりするのです。

 

未成年のときは、別世界の出来事のように受け止めていて、

ビアガーデンでの愉快なビールしか知らないときは、なんとなく想像するだけ。

世の中のことが理解しかけていたときでさえ、

理解できた気になっていただけだったと、いまではわかります。

 

悲しみが、ビールを飲むことでしかしのげないことを知ってしまえば、

種類は違えど、悲しみをリアルに共感できますけれど、

本当は、たとえビールを飲んだところでしのげない悲しみがあることまで、

切ないけれど、知ってしまったりしています。

 

いずれにしても、やっぱり好きな作家だったんでしょうね、いつのときも。

登場人物、ひいては作家の考え方に影響を受けてきたせいで、

知らないうちに真似て、身に付いてしまっていることにも気付きました。

ですから、みょうに男性的なんですよね、わたしの考え方って(笑)

 

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年齢を重ねることは、実は、とても怖いことだと思っていました。

祖母や母の生き方を間近で見てきているせいか、

わたしと、祖母や母とはまったく違う人間だとわかっていながらも、

同じように老いて、出来ないことが増えて、いつか壊れていくのだろう、と。

 

けれど、年齢を重ねることにも、喜びはあるんですよね。

年齢を重ねたり、リアルな人生経験を経ないと理解できないことがあって、

定点観察的に、同じ小説に対する感じ方が変化していく、ということは、

とても豊かな喜びで、初めての感覚でした。

 

そして、苦しいときは、自分だけが苦しいように感じて、

視野がどんどん狭くなりがちですが、

ひとは誰でも同じように、ときに、苦しい体験をするものだ、と教われば、

視界が大きく開けるかどうかは、わたし次第だとわかります。

 

このようなときのために、良質な小説というのは存在し続け、

いつか私を癒そうと、気長に待っていてくれたのかもしれないな、

などと言っては、大げさでしょうか(笑)

夏至の短い夜に、揺れる炎を見ながらそんなことを想っています。