春にして
終雪、という言葉があるそうですね。
春に降る最後の雪のこと。
汽車を待つ君の横で時計を気にしている『なごり雪』の「僕」は、
きっと今日みたいな日に、ホームに立っていたのでしょうね。
この冬に読んだ本のなかで、とくに印象的だったのは、
アガサ・クリスティの『春にして君を離れ』。
事件も起こらないし、探偵も登場しないけれど、
むしろ事件を起こさないように繰り返される日常の、そのそら恐ろしさ。
自分の見たいようにしか、わたしは世界を見ることができないし、
自分の聞きたいようにしか、わたしは世界を聞くことができません。
ある程度の努力で、その範囲が広く深くなることはあるとしても、
誰もが独特な角度でしか、世界を知覚することができないのです。
この世界を、わたしと同じように知覚している人は誰もいない、
ということを、本当の意味で理解したときのことは、忘れられそうにありません。
足元の地面がいきなり無くなってしまったような恐怖に襲われて叫びそうになり、
その心細さに、今でも時おり愕然となることがあります。
人それぞれ、と言い切ってしまうこともできますが、
そこから先は、会話も無く、互いの世界は永遠に未知のままです。
もし、分かり合う努力をしなければ・・・というのが、この作品の肝。
この読後感を忘れてしまったら、と思うことさえ、今は恐ろしいです(笑)
けれど、この作品がわたしにとって忘れがたいのは、そのタイトルでした。
手に取ったとき、わたしは深い悲しみのなかにいて、
この冬のあいだだけは、悲しみに浸っていてもいいと決めたのでした。
そして、春になったら、この悲しみから離れよう、と。
原題とは、少しニュアンスが変わってしまうかもしれないのですが、
ページを開く前に、このタイトルの雰囲気から、そう決めてしまっていました。
そして、自分がそう決めたにもかかわらず、むしろ、そう決めてしまったせいで、
春を迎えるのが、実はとても怖かったのです。
当たり前のことですが、
やはり、春が来たからといって、悲しみは消えそうにないし、
でも、こんな風に冬が少し戻ってきた日だけは、
まだ悲しみに浸っていてもいいような気がして、少し気持ちが楽になりました。
いずれにしても、季節の変わり目はいつだって、
移りゆく季節に、心も少しだけ揺れてしまうものですね。
雪のように、あるいは、キャンドルのように、
すべての悲しみもいつか、溶けて消えてしまいますように。