自由を生きる
このところ考えているのは、「違い」ということ。
急に気になりはじめたのではなく、思えばずっと考えていたかもしれません。
前回の記事は、梅干の色・味の好みの違い、ということがきっかけでしたが、
最近、そういうことを感じる機会が増えています。
ユニーク、といえば少し勇気が出る気もしますが、
人と違う、ということを、私はひたすら恐れていたような気がします。
無理をして、人と同じように振る舞うのは、自由ではないし、楽しくもありません。
でも、それで良い、と自分に言い聞かせて、その通りにしてきました。
このごろ特に、私の口から「普通は・・・」「常識だと・・・」という言葉が、
ことある毎に発せられていることに、急に気づくようになりました。
でも、そういう自分のなかの「常識」を主張しているときって、
実は、相手の「常識」と相対しているときなんですよね。
「自由」という言葉って、どんなイメージですか?
私にとっては、たとえば大空を羽ばたく鳥みたいな、
軽やかで雄大な、甘いだけのロマンチックな響きの言葉、フリーダム。
だから、私の望む生き方ではないな、と感じてきました。
でも、あまりに誰かの「常識」とぶつかる機会が多くなると、
ぶつかっているのは、相手ではなく、むしろ自分自身ではないのか、と思うように。
すると、「自由」の言葉の由来を知る機会がありました。
「自ずからに由る」、つまりは、自分自身を拠り所とすることなんだそう。
それならば「自由」を生きてみたいなぁ、と本気で思うようになりました。
なぜって、キャンドルを制作しているとき、私はとても自由を感じているのです。
自分自身の感覚を存分に指先に伝え、展開していける喜び。
周囲を気にせず、自分自身でいることを楽しむためのリハビリ、なのかもしれません(笑)
よく「忙しいのに、キャンドル制作なんて大変じゃない?」と聞かれます。
たとえ忙しくても疲労感を感じないのは、自分に帰れる時間だからなのでしょうね。
それに、作品を作るときだけは、ユニークであることに胸を張れますし、
だからこそ、自分のなかから次から次へとアイデアが湧き出るのかもしれません。
「常識」を振りかざしても、空しい結果につながることが多いですが、
相手を理解しようとすることで、世界が広がることも、実は多いものです。
自由とは、自分勝手に振る舞い、自分を押し通すことではなく、
それぞれを拠り所とする個人同士である、ということを受け入れる、ということですね。
とすれば、勝手気ままに振る舞う輩には、決然とノーを突きつける勇気も必要。
どうやら、常識って1種類のようでいて、実は、人の数だけあるようですから、
ぶつかるのも、ぶつかるのを避けるために言葉を飲み込むのも、もう止めて、
自由を貫く技術こそ、磨いていこうと思います♪