ETERNAL-FLAME

~ 寝ても醒めても キャンドルのことばかり ~

響き合う予感

 

桜が満開となりましたね。

 

花見酒、といきたいところでしたが、

今年の桜を誰よりも楽しみにしていた友人を失ったことが胸に痛く、

いつものブルーシートの賑わいから目をそらして、花曇りの空を見上げます。

・・・でもきっと、空の上からのほうが、桜の眺めは美しいことでしょう。

天国の美酒に酔いしれていることを祈りつつ、今年は花の下を静かに通り過ぎるだけです。

  

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ところで。

夢を語る、ということの大切さを忘れていたような気がします。

驚くほどたくさんの人が、私に向かって夢を語ってくれた週末でした。

それぞれの立ち位置のそれぞれの夢があって、

その夢を語る顔がどれもキラキラしていて、つい見とれてしまうほど。

 

「夢なんか持たなくても生きていけるよ」と強がっていた私でしたが、

強く深く勇気づけられました。

同時に、それぞれの夢を応援したい気持ちが自然と湧き上がるのを感じつつ、

応援する、ということはつまり、私の夢を語って聞かせる、ということなのかな、と。

それこそが、大切な夢を語ってくれた彼女たちへの礼儀なのではないだろうか。

 

 

最後に夢を持ったのは、いつだったでしょうか。

目標、というものはつねに身近にあり、くせのようなもの。

でも、「誰かのようになりたい」と痛切に願う思春期を過ぎて、

自分探しのモラトリアムも経た今、思うのは、

見つけたかったのは「なりたい誰か」でも「本当の私」でもなく、

「私は私だった」ということ。

「私は私」という感触そのものだったのだ、と。

 

「私は私」・・・本来それはとても当たり前なのですが、

なかなか自分が定まらないようで不安になることは、誰にでもあるのではないでしょうか。

ある人が自分のことを「悩みたがりの時期があって」と評していて、

心の底から、深く共感しました。

 

たとえば、私の天秤がいつもグラグラするのは、うんざりするほどのナイーブさのせいですが、

そのグラグラすることこそ「生きている」ということであり、

私の天秤の両腕は、むしろ水平を保つためにグラグラしてきたのです。

そして、天秤で大事なのはむしろ、グラつく両腕ではなく、支柱自体がブレないこと。

だから、バカボンのパパの偉大なお言葉をお借りするなら・・・「これでいいのだ!」

 

 

で、夢を語るということ。

幼いころの私の夢を、母はいまでも覚えているようで、

時おり酔ったときなどに突然言い出すので、愕然とすることがあります(苦笑)

もちろん、大きなことを言っていたようで気恥ずかしいのと、

そのころにとっての未来である今とのギャップと、

そして、あながち外れてもいない夢の核心とに、ドキリとしてしまうのです。

 

ひとつの夢が潰えるとき、

その夢の終わりを、しっかりと見届けるのは大切なこと。

諦めなければ叶う、とも言いますが、叶わない夢だってないわけではない。

そして「叶わなかった」と嘆き続けるのを止めるから、次の夢が見つかるのでしょう。

けれど、もしかしたら、次の夢が叶うときには、

終えたはずの夢も、こっそり叶っているかもしれません。

 

 

呼応、あるいは、CALL & RESPONCE。

・・・ちょっとキザな言い方をするならば、

夢って大切なものだから、誰にでも語るわけじゃない。

私にだからこそ語ってくれた、という風に思いたいのです(笑)

 

というのも、このタイミングで、申し合わせたように語られた夢たちの音やリズムが、

私のなかから出てくる音やリズムを待ちわびている、そんな感覚なのです。

それならきっと、次の夢は「響かせる」だけじゃなくて「響き合う」ということかもしれません。

 

花冷えの風だって、春には無くてはならない大切な風情です。